あんかけが書く

かきたいことをかきます。

ゲームについて思うこと 3 『変化』

 テレビというものは流れてくる番組を眺め、それの内容について楽しむもので、受動的な娯楽である。その気になれば何かとんでもない芸を身につけ、番組に出られるかもしれない。そうすれば能動的にテレビを楽しむとでも言えるだろう。

 しかし、ゲーム機が登場してからは話が変わった。今まで眺めるだけであったテレビの中身を、自分の意思で動かせられるのだ。ゲーム機が一般に広まってからは子供の娯楽は変わったのではないだろうか。

 

 昨日のテレビ番組について話し合う所から、目の前のゲームの状況をリアルタイムで話せるようになったのだ。時代は大きく変わっていった。

 現代ではオンライン環境で通話しながらいつでも誰とでもゲームができる。目の前で遊ぶのも楽しいが、利便性としてはこちらが上である。

 

 未来はどう変化していくのだろうか。フルダイブ型のソードアートオンラインのような楽しみ方になるのだろうか。それとも、VR上空間にゲーム環境ができ、そこで一緒にゲームをするのだろうか(表現が難しい)。これからが楽しみである。

 

 

 

 

 

 

 なんか薄い文章な気がする。眠気のせいにして寝てしまう。

42つめのすきなもの『一人称』

 ぼくは普段、「ぼく」という一人称を使わない。友人の前なら「俺」である。ぼくがこのブログで「ぼく」にする理由はあまりないが、強いて言うなら「ぼく」である方が文章が出やすいのである。勝手なぼくの思い込みであるが、ルーティンと呼べば聞こえは良い。

 

 ぼくの少ない友人・知り合いでも「ぼく」なる一人称を使うのは1人しか知らない。ほとんどは「俺」である。「俺」という一人称にはどこか粗雑で荒っぽい印象があるが、類が友を呼んだ結果だろうか。

 もちろん、ぼくも少しは真面目な場面で話すときがある。そのときに使うのは「私」だ。一人称が変われば口調も変わる。「俺」よりもう少しかしこまった真人間に変身できる。

 

 今出したのは「ぼく」「俺」「私」の3つだが、気を使わずとも使い分けられるようになった。慣れでもあるが、幽遊白書の仙水の如く、「ぼく」人格のようなものが出ているのかもしれない。そう思うと、一人称はなかなか不思議な力を持っている。

 

 日本にはまだ一人称が多くあり、創作物の中では新たに生み出されているものもあるだろう。思いつく限りでも、我、我輩、あたし、朕、わし、うち、拙者、某。ここに出てないものも必ずまだある。もっとも、我輩なんて一人称を使うのはクッパかラーテン・クレプスリーしか知らないが。

 もし自分がこんな一人称を使ったとき、どんな性格になるのか気になる。当分使うことは無いだろうが、ジジイになってから「ワシの若い頃はな、」なんて面倒な話を若者にしてみたいものである。

 

 さて、あなたが普段使う一人称は何だろうか。

さっきまであったこと

 身バレ覚悟で書く。

 嵐のように3時間程経った。

 

 電車で本を読みながら帰ってきた。本のタイトルは『日本ゲーム産業史 ゲームソフトの巨人たち』(日経PB社)。様々なゲーム制作会社の歴史、その中心となったゲームクリエイターの思いが事細かに綴られている。ゲーム好きとして読むべき一冊だと思った。

 

 17:30。いろいろ事情が重なっていつもより早めの帰宅。荷物を降ろし、一息をついた。主苦しいスーツを脱ぎ、シャツを洗濯へ。パンツ一丁になったとき、ふと自分が泣いていることに気がついた。

 風呂に入れば、このよくわからない気持ちも流せるであろうと思い、風呂に入る。しかし、涙の水瓶に水を注いでしまったかのように涙は増すばかり。何かが悲しくて泣き続けていた。

 飯炊きをしなければならないが、そんな状態ではない。泣きすぎて呼吸が乱れ、手足がしびれてきた。よくわからないこの気持ちをなんとかしたくて、対処法もわからないままに友人へ電話をかけた。友人は泣きじゃくるぼくをひたすらあやしてくれた。涙はなかなか止まらなかったが、呼吸は整い、カレーを作れるまでは回復した。

 

 涙も止んだところで、なにか良くないとの友人のアドバイスもあり、明日は休みを入れることにした。先輩への電話は怖かった。「とんでもない新入社員じゃないか」「サボりたいだけだろう」「あぶない奴と関わりたくない」そう思われてしまいそうで。

 実際は優しかった。優しさにまた泣き出してしまったが、社内の環境から私生活まで気を遣って話を聞いてくれた。ありがたい限りである。

 

 自分を襲ったあの悲しさは何だったのだろうか。心の中のもやもやとかすかな痛みをしまい込み、カレーを食らう。

 

41つめのすきなもの『自分の場所』

 別にMOTHER2の「おまえのばしょ」ではない。しかし、それに近い何かがあるには違いない。そう思わせるのが『自分の場所』である。

 この書き方のままでは、あまり具体的ではない。具体例なら自分の家、実家、実家の自分の部屋、自分の席だろうか。自分で得た、もしくは他者より与えられた自分のための空間を示す。

 

 多くの人間がそうであろうが、他人の空間では自分を出しづらい。親しい友人の少ない他のクラスに行った時のような疎外感があるのだ。また、どんな友人の家であれ、その空間はワイワイと楽しむために自分を存在させるのであり、ゆったりするためにいることはあまりない(帰省の際に友人の家を中間拠点にすることはあるが)。どんなに気の置けない友人であれ、その空間の持ち主がいる以上は相手を考える必要がある。

 自分の場所であれば、自分が主役である。どこで何をしようが勝手なのだ。他には見せないほどの堕落した自分でいられる。その自分の周りには自分のニオイが染み付いた(臭くはないはず)道具があることも大きい。馴染んだ物は使うだけでなく、視界に入るだけでも安心する。

 ただ、その空間には他者がいてこそ成り立つ場合もある。自分の席の周りには良く知るあいつやアイツが必要なのだ。虚無の中に自分の席があってもなにか物足りないだろう。ふとゲームをしながら周りを見て思い浮かぶ。

 

 仕事の都合で外へ来ているが、何より安心するのは自分の場所。早く帰ってぐうたらとした自分でありたいものである。

40つめのすきなもの『料理』

 最近ワンルームを借りて住むことになった。炊事掃除洗濯と家事はひと通りしなければならない。今朝も炊飯器の釜を保温のままにして一夜を過ごしたことに肩を落としている。自分が気が付かなかったことを注意してくれる人がいない。寂しさとともに家族のありがたみを感じた。

 一人暮らしの中で少しだけすきなものを見つけた。それは、自分は案外料理がすきなのではないか、ということである。

 レパートリーは指の数にも満たない腕前なのだが、炒める過程などで食材を眺めるのは嫌いではないのだ。箸でこねくり回しながら肉の色が変わり、野菜がしんなりとしていくのは完成に近づくのが目に見えるようで楽しい。料理には工程がある以上、どういったものであれ、楽しいと感じられるだろう。

 また、やはり食べることも一つの楽しみである。カレーなどはまずくなりにくいため当たり前といえば当たり前かもしれないが、味は悪くない。

 しかし、何度か作ってはみる度に実家の飯が美味いことを再確認する。働かずに食う飯の方が美味いのもあるが、自分で作った飯はは何か足りないなと感じてしまう。実家で修行を積んでおくべきだったと後悔もある。

 まだ初心者だから、と妥協できる面もあるが、できる限りストイックに、完成度は上げていけると良い。これからの発展を願う。

 

 食べ終わって思うのだが、皿洗いというのは悲しいものである。先程まであんなに料理が載っていた皿が空になり、しかも手間をかけて洗わなければ再度使えないのだ。

 これだけはどうもすきになれなさそうだ。