あんかけが書く

かきたいことをかきます。

13つめのすき『パラドックス』

 昔、楚に武器商人がいた。商人は持っている盾を売り込もうと、

「この盾はどんな鋭いものも通さない、素晴らしい守りを誇っている。」

と説明した。もう一つの矛も売り込もうと、

「この矛はどんなに頑丈なものも貫く、秀逸な武器である。」

と説明した。

それを聞いたある人は、

「商人さん、その矛でその盾を突いてやったらどうなるんだ?」

と聞いた。

商人は何も答えることができなかった。

 

 これがかの有名な「矛盾」の故事である(中学の授業以来読んでいないため一部異なるかもしれない)。この話から転じて、矛盾とは「主張に対し物事の道理が合わないということ」を意味するようになった。

 

 さて、今回のパラドックスと矛盾は似て非なるものだ。矛盾は「どう考えても間違い」だが、パラドックスは「聞いてみると何か間違っている気がするのだが、証明し正しいとすることができる」のだ。正直なところ小難しい話がぼくは苦手であり、今書いたパラドックスの定義からいくつがあるパラドックスのそれぞれの証明を理解しているかというと微妙なところだ。

 何故こんなものに興味があるのかというと、元は中2の病気の頃である。その時に見ていたのは思考実験なるものだった。有名なものを例に出すと、「今見ている風景、感じたものはから全てコンピュータによって与えられており、本当の自分はビーカーの中の培養液に浸かった脳だけかもしれない」という水槽の脳問題がある。他にも、哲学的ゾンビや世界5分前仮説といった初歩的ではあるが、自分で考えても答えが出そうにないものを調べて頭にハテナを浮かべていた。これはこれで気になると夜も眠れない問題達だ。

 この延長線上にパラドックスがあった。ぼくにとっては「何をどう考えてもよくわからないもの」という共通点があったのだ。久しぶりにウィキペディアを見ながら少しは理解できるようになったり、なんとなくの答えが出せるようになったが、やはりよくわからないものはよくわからないのだ。そのため、軽くは触れるもののすべてを説明するようなことはしないしできない。

 

 ぼくが気に入っているのは「砂山のパラドックス」だ。大まかに言えば

  1. 大量の砂粒からできた砂山がある
  2. 砂山から1つの砂粒を取り除いたとてそれは砂粒である。
  3. さて、2を繰り返し最終的に一粒になった砂粒であってもこれは砂山である。

というものだ。

砂山のパラドックス - Wikipedia

「いやいや、それはチリであって山ではない」

と感覚的に否定したくなるが、理屈は通っているのだ。

 これを解決する方法としては「そもそも砂山に見えるのは何粒からか明らかにする」(しきい値を決める)、「そもそも始まったのが砂山だから一粒でも砂山なのであって、十粒から始まっていたなら砂山とは言ってないだろう。ならば最初に作った砂の塊は砂山でなかったのかもしれない」(過去の肩書としての砂山を考え直す)、「そもそも砂山と砂粒の中間を無視して0か1の話をするのが良くないのだから、もう少し状態を区切って考えるべきだ」(アナログ化)などだろうか。この辺りもぼくは専門ではないので間違いも許してほしい。

 

 何が面白いというのはうまく説明できないが、授業よりは面白かった。大昔から哲学者を悩ませた問題だけあってそれだけ人を惹く何かがあるのだ。すぐに解法を出してしまうようなよっぽど賢い人間でなければ暇なときにふと思い出して考え続けてしまうだろう。もしこの記事で気になったら調べてほしい。

 

 やはり難しいことはぼくには何一つ掴めない。確かに面白さはあるのだけれども、それを説明するためにはぼくがこども過ぎた。今回はこのあたりで。では。