あんかけが書く

かきたいことをかきます。

24つめのすき『ゲーム(過去編)』

 よくよく思い出したら引っ越してきてから休日、ゲームにまつわる何かしか行ってない。なぜこうもゲーム漬けになったのだろう。ひたすらにぼくが頭にあることを書き連ねていく。

 

 とは言いつつ何から出そうか。いつもの「すきなもの」みたく昔の話からにしよう。

 

 自分が初めて自分の意志で遊んだハードはゲームボーイカラーGBAだと思うが、家にはSFCだとかPS1だとかPSXなるPS2に番組録画機能がついたものがあった。もちろんぼくが遊べるほど賢くはなかったし、ぼくのためのものでもない。父親が遊ぶものだった。専ら父はPSXパワプロ9とかダビスタをしていた。後ろから見ていた画面には不思議な体の構造をした選手たちがいつも走り回っていた。またある時は広い芝を駆け抜ける栗毛色のサラブレッドだった。

 ぼくが後ろから見ているとき、父は律義に構ってくれた。野球に縁のない人生を送ってきたとはいえ、ルールを知ったのはこのおかげかもしれない。ダビスタも新たに馬が生まれた時、名前を一緒に決めた。いつも名前は「アンカケポテロング」のような「ぼくの名前+何か」だった。小さい子供に競馬ゲームという変化の少ないものを面白く見せるいい方法だと思う。ぼくも他人事でなく後ろで応援していた。ゲームを見ている前の話だとは思うがこんなことをしていたら初めて喋った言葉は「桜花賞」だったらしい。親としては複雑な心境である。

 父親の影響で始め、すきになったゲームは多い。ドラクエ信長の野望三国志くにおくん(時代劇とドッジ)、ストⅡ、ぷよぷよ、パラッパラッパ―。思い返せば意外とあった。父は初見で適当にやらせてたまに様子を見て経過を楽しむタイプだったのだろう、あまり覗きに来るようなことは無かった。実はゲームができるまで成長した息子に嬉しさもあったかもしれない。そうかは知らないが。

 

 小学校低学年あたりでポケモンEmとかLGとかが流行った。GBAにくっつき、ポケモンのレベル上げに励んだ。いつでも相棒のリザードンは強くて、バトルサーチャーで更なる強者を求め練り歩いた。ポケモンはすきだ。映画も見てデオキシスもゲットした。当時のぼくは映画のアイツを手中に収めたと喜んでいた。きっと今でもそう喜べる。

 ぼくの手も大きくなり、DSに移行しても相変わらずポケモンだった。DPのちかつうろのハタ取りで友達と爆笑した。なぞのばしょに怯えながらもダークライを捕まえた。なんだかんだ一番満喫していたポケモンではないだろうか。

 DSならポケモンに限らず、マリオカートスーパーマリオマリオパーティと2つの画面の中では配管工があっちこっちと動いていた。なんとも任天堂漬けである。どう森カードヒーローテトリスとまだまだあるが、一度置く。DSのダウンロードプレイは画期的だった。1台あれば8人まで一緒に遊べるのだ。みんな幸せでみんな面白く遊べた。

 みんなで遊ぶには据え置き機も欠かせない。GCはダブルダッシュにスマDX、WiiはこれまたマリオにスマX、Partyもあった。

 中学生辺りではなんとなくPSPに移行する人間が増えた。ぼくは未だにポケモンBWを続け、少し遅れてモンハンブームに乗った。モンハンも死ぬほどやった。ただ、部活で忙しいだとかの理由で一人で進める時間は多かった。正直、PSPはあまりやってない。モンハンの他にやったソフトはパワプロ2011とゆうなまくらいだ。

 

 小学校入学前から続けて中学校卒業となれば10年を超える。よく飽きずに続くものである。理由は何だろうか。

 単純にゲームが面白かったのかもしれない。RPGなら小説のごとく物語は進み、自分の分身が敵をモリモリ倒しながら次の場所へ向かう。元々、本は嫌いじゃなかったぼくは世界に入り込んで遊んだ。大筋のストーリーは決まっているが、ここで誰の武器を買い、あのボスは何の呪文で倒したかという部分はプレイヤーによって違うのだ。この違いが生まれた瞬間、自分だけの世界ができる。RPGとは少し違うが、オープンワールドのゲーム(SKYRIMやブレスオブザワイルド等)はこの感覚を存分に楽しめるゲームだと思う。

 もしくは時間があったからかもしれない。ぼくは運動があまりすきではなく、塾も通っていなかった。そうなれば小学生は遊ぶ。外で駆け回ることもしていたが、ゲームの話が出れば集まって何かしようという流れだった。ゲームをするのがすきな友人がいて良かったと思う。

 さらに言うなら、良い反応を貰えたからかもしれない。ポケモンでもドラクエでも、レベルを上げればあのファンファーレが鳴り響き、レースゲームなら盛大な歓声とトロフィーがもらえた。では勉強、運動はどうだろう。ぼくはよくありがちな中学校までなら勉強ができた人間だ。テストの点数はいつも高かった。それでも親も教師もあまり反応はなかった。あっても「うんうん、次も頑張ろうな」くらいのものだった。子供ならどちらが嬉しいだろうか。ついでに言うなら、ゲームは画面の中で命に近いものを賭けている。だからこそ「死んだ」「逝った」と表現される。緊迫感が違った。普段のテストは埋めて寝れば終わっているのだから。

 運動は話にならない。走りは鈍足、筋肉も足りない。何もできないため、評価は得られるはずがなかった。ただ周りに怒られ、走り疲れて帰ってゴロゴロと携帯機を握りしめるのが日常だった。部活のない3年生は天国であった。そこそこ勉強しつつゲームばかりだった。

 

 こうしてゲームに浸かったまま義務教育は終えた。自分で書きながら少し不安になった。タイトルからわかるかもしれないが、続きで現在編も書く。続きはそのうち。