あんかけが書く

かきたいことをかきます。

ゲームについて思うこと 2 『ゲームとは』

 先日、Wikipediaをなんの気もなく眺めていると、「ゲーム」の記事にこんな記述を見つけた。

 

特にテレビゲームは「褒める装置」ともいわれる。

ゲーム - Wikipedia

 

 かなり納得がいく。マリオシリーズであればゴールすればファンファーレが鳴り花火が打ち上がる(無いこともある)。おなじみのメロディが聞こえることにより一つの達成感を得ることができるのだ。

 この画面上の効果により、「おめでとう!!!!!!このステージをクリアしました!!!!あんたはえらい!!!!!!」と盛大に祝われている気がする。ぼくらのような庶民が現実で走ったところで評価されることはない。出迎えてくれるのは精々筋肉痛である。

 この特徴が出るゲームの種類似としては音ゲーが大きいだろう。何度も譜面に挑戦するも伸びないスコアに苦しみつつ変なクセに悩みつつ。なんとか目標を達成したその先では筐体からの大きな歓声と大きく表示されたクリアランク(すごさレベル)が輝いている。この瞬間、例えようのない達成感と満足感に包まれるのだ。これがなんとも気持ちいい。

 音ゲーに限らず、レースゲーム、パズルゲームなどのスコアやタイムで自分を超えるゲームには、アスリートのようなストイックさが求められる(もちろん遊びたいように遊ぶのも良い)。ここからの開放もまた先述の気持ちよさにつながるのだろう。

 

 話を変える。

 

 唐突な自分語りをする。ぼくは大した取り柄のない人間である。大きな評価を得られたことはそうない。学校の集会で表彰される人間を眺めつつ適当に手を叩く人種だ。

 そんなぼくが先述のようなゲームと出会ってしまった。勉強よりも遥かに面白いくせに良い点数ならきっちりと相応の評価が返ってくる。テストは良い点であっても「まあ良かったね」で終わってしまう所、ゲームは拍手に歓声付きなのだ。これが欲しくてたまらない。

 

 よほど才能のある人間以外は、ゲームが最も褒めてくれる存在足り得るのではないだろうか。だからゲームで良いスコアを目指したいし、対戦ゲームなら目の前の敵を倒し、ゲーム外からも歓声を得たいと思ってしまうところがある。

 

 もしぼくが子供を育てる(ない)ことになったら(ならない)、ゲームに負けないくらい褒めて育ててあげたいものである。