あんかけが書く

かきたいことをかきます。

14つめのすき『キケン 作:有川浩』

 ぼくもたまには本を読む。それは自分の成長にするためとかではなく、単純に娯楽としてのものだ。巷には自己啓発書やビジネス書なる崇高な本もあるようだが、あまり気は向かない。何冊かは買ったり借りたりして読んだことはあるが、あまり難しい話はわからなかった。やはり現実のややこしい話よりも小説のおかしなお話のほうが肌に合う。本といえば分類番号913のものが1番だ。

 

 有川浩さんと言えば陸海空三部作だとか図書館戦争とかのミリタリーに混じって恋愛要素のある小説やクソ甘いラブコメがメジャーだろうか。

 ぼくはそういう話は縁がない人間なので、有川浩さんの作品に限らず、恋愛色が強くなると若干読むのにしんどいところがある。しんどいという表現があまり良くない。言い換えれば「冷めた目で見てしまう」のだ。それらの作品を読んでいた頃のぼくはなんともないのだが、最近のぼくは途中から「なにをこいつらはいちゃついてんだ…」と思ってしまう。

 話がそれた。その有川浩さんの作品の中でも「シアター」のような有川浩さんにしては少し変わったものや「三匹のおっさん」のようなコメディ要素の強いものがすきである。特に「キケン」がお気に入りだ。主人公が入学した、ある工業系大学で入ってしまった1サークルが舞台の小説だ。もう少し詳しく書くとするなら、工業系の男達がグラウンドを爆破したり文化祭に全力でラーメンを作る話である。有川浩さんなのでもちろん恋愛成分もあるのだが、今のぼくが読んでもダメージは少ないものだ。

 

 確か初めて読んだのは中学生のときだ。そこそこの頻度で話していた司書のおばちゃん先生に勧められたのがきっかけだった。そのとき、ぼくが読んだ感想は

「めっちゃ面白い!でもこんな学生そうそうおらんやろな…流石に学校でそこまでしたら退学や」

だったと思う。同じ言葉を司書の先生に話して、「先生は学生の頃にこれくらいはっちゃけたこともあったよ」と返されたのをよく覚えている。あんなに静かで司書をするような人にやべー時代があったとは思わなかったのだ。

 そしてまたしばらく経ち、いつの間にか文庫本を買っていたものが掃除中に出てきた。懐かしさのあまり手を止めて読み始める。気がつけば最後のページを越してあとがきへ。感想は「学生はこんなもんなのかもしれない」だった。案外司書の先生が言ったことも嘘じゃなかったのかもしれない。また、記憶の新鮮な今よりも、もう少し年を取ってから読んでみたいとも思った。気持ちだけでも若い自分に戻れるかもしれない。

 

 最後にこれらの文をまとめるならこうだろうか。

「事実は小説より奇なり」

 

 

 読書感想文という形ではないけれど、感想をまとめてしまえばこんなものだ。文体がどう素晴らしいとか更に難しい話はもっとよくわからない。これくらいの本の紹介文くらいならまた書くかもしれない。

 ではまた。

13つめのすき『パラドックス』

 昔、楚に武器商人がいた。商人は持っている盾を売り込もうと、

「この盾はどんな鋭いものも通さない、素晴らしい守りを誇っている。」

と説明した。もう一つの矛も売り込もうと、

「この矛はどんなに頑丈なものも貫く、秀逸な武器である。」

と説明した。

それを聞いたある人は、

「商人さん、その矛でその盾を突いてやったらどうなるんだ?」

と聞いた。

商人は何も答えることができなかった。

 

 これがかの有名な「矛盾」の故事である(中学の授業以来読んでいないため一部異なるかもしれない)。この話から転じて、矛盾とは「主張に対し物事の道理が合わないということ」を意味するようになった。

 

 さて、今回のパラドックスと矛盾は似て非なるものだ。矛盾は「どう考えても間違い」だが、パラドックスは「聞いてみると何か間違っている気がするのだが、証明し正しいとすることができる」のだ。正直なところ小難しい話がぼくは苦手であり、今書いたパラドックスの定義からいくつがあるパラドックスのそれぞれの証明を理解しているかというと微妙なところだ。

 何故こんなものに興味があるのかというと、元は中2の病気の頃である。その時に見ていたのは思考実験なるものだった。有名なものを例に出すと、「今見ている風景、感じたものはから全てコンピュータによって与えられており、本当の自分はビーカーの中の培養液に浸かった脳だけかもしれない」という水槽の脳問題がある。他にも、哲学的ゾンビや世界5分前仮説といった初歩的ではあるが、自分で考えても答えが出そうにないものを調べて頭にハテナを浮かべていた。これはこれで気になると夜も眠れない問題達だ。

 この延長線上にパラドックスがあった。ぼくにとっては「何をどう考えてもよくわからないもの」という共通点があったのだ。久しぶりにウィキペディアを見ながら少しは理解できるようになったり、なんとなくの答えが出せるようになったが、やはりよくわからないものはよくわからないのだ。そのため、軽くは触れるもののすべてを説明するようなことはしないしできない。

 

 ぼくが気に入っているのは「砂山のパラドックス」だ。大まかに言えば

  1. 大量の砂粒からできた砂山がある
  2. 砂山から1つの砂粒を取り除いたとてそれは砂粒である。
  3. さて、2を繰り返し最終的に一粒になった砂粒であってもこれは砂山である。

というものだ。

砂山のパラドックス - Wikipedia

「いやいや、それはチリであって山ではない」

と感覚的に否定したくなるが、理屈は通っているのだ。

 これを解決する方法としては「そもそも砂山に見えるのは何粒からか明らかにする」(しきい値を決める)、「そもそも始まったのが砂山だから一粒でも砂山なのであって、十粒から始まっていたなら砂山とは言ってないだろう。ならば最初に作った砂の塊は砂山でなかったのかもしれない」(過去の肩書としての砂山を考え直す)、「そもそも砂山と砂粒の中間を無視して0か1の話をするのが良くないのだから、もう少し状態を区切って考えるべきだ」(アナログ化)などだろうか。この辺りもぼくは専門ではないので間違いも許してほしい。

 

 何が面白いというのはうまく説明できないが、授業よりは面白かった。大昔から哲学者を悩ませた問題だけあってそれだけ人を惹く何かがあるのだ。すぐに解法を出してしまうようなよっぽど賢い人間でなければ暇なときにふと思い出して考え続けてしまうだろう。もしこの記事で気になったら調べてほしい。

 

 やはり難しいことはぼくには何一つ掴めない。確かに面白さはあるのだけれども、それを説明するためにはぼくがこども過ぎた。今回はこのあたりで。では。

12つめのすき『空を眺める』

 朝起きると、ぼくは締め切っていた部屋のカーテンを開ける。そして空模様をチェック。今日は良い天気だった。気持ちよく晴れた日はなんとなく悪い気分ではない。この時期の晴れは過ごしやすい気温になるはずなのだから当たり前といえば当たり前だ。

 身支度をして外へ出る。田んぼの真ん中を歩きながら、改めて空を見上げる。夏はあんなに威張り散らすように照りつける太陽も、まだ大人しい。空には高いところに薄く雲が流れている。今日はまた風が強くなりそうだと思いながら足を動かし続けた。

 そして夜、今日の反省会をしながらまた空を見る。今のぼくの住んでいるところはそこそこの田舎であるため、星も見える。星座の知識などカシオペア座と冬ならオリオン座、夏ならさそり座くらいしか知らないが意味もなく眺めてしまう。ぼーっと星を見ているこの時間もまたよい。

 ぼくにとっての空は「毎日」の象徴のようなものだ。普段は何事もなくただ雲が浮かび、なんの変化もないが、たまには激しく雨が降る。ふと気がつけば飛行機が飛んでいたり日食だのと少し気分が高まることもあったり。誰もが望む平和な日常はきっとこんなものなのだろう。ぼくもこれくらいのんびりした生活を送りたい。

 

 空を彩る雲もまた主人公である。夏のごつごつとした雲らしからぬ厳つい入道雲は迫力があるし、気がつけば道を引いたように一直線な飛行機雲も自然な雲の形とのギャップが見られて面白い。冬に雪が降るならば一面白色の地面とこれまた真っ白な雲が目に飛び込んで天地を間違えてしまいそうだ。芸術作品を鑑賞がごとく、ぼくは空とともに雲も見る。

 

 繰り返し言うがぼくは田舎の人間である。ぼくのような暇な人間にとって空を眺めるのは最高で高尚な暇つぶしの1つである。そんなぼくに横を向けば空があるこの土地はなかなかいい場所だったのかもしれない。

 たまに行く都市部はなんとも空が狭い。大きなビルの前にはあれだけ存在感のあった入道雲もかたなしだ。なんとなく物悲しい。

 

 そんなことを考えていた1日であった。それではまた次の記事で。


地元は関係ないけれど大洗に行った時の空。
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11つめのすき『攻略本』

 ぼくは昔から、勉強を進んでするような人間ではなかった。面白いところを見出すことはできなかったのだろう。小学生のぼくは外でキャッキャと遊び、拾った木の枝をブンブン振り回して喜ぶような子供だった。友達と鬼ごっこでもしていた方が楽しかった。

 中学生になり、外で遊ぶことはほぼなくなった。外で遊ぶような年でもないうえに、走り回るのは部活で事足りた。だからといって勉強時間が増えたわけではない。次はゲームの時間が増えていた。ポケモンブラックホワイトが発売され、動くドット絵に感動したり、モンハンP3で初めてPSPに触り解像度に驚いた。

 もちろん親からはゲームしすぎるなと注意されていた。父方のばあさんから「あんたの父ちゃんもあんたくらいのときはファミコン(本当にファミコン)でずっとゲームしていた」と聞いていたため、父親から「勉強しろ」と言われても「じゃあこの年の頃勉強したのか?」と返してひっこんでもらっていた。母親はそんなことはなく、むしろゲーム反対派だったため、WiiのACアダプタやDS本体を没収された。

 それでも勉強はしたくないため、買ってもらっていた攻略本でゲーム欲を抑えていた。当時はポケモンDP公式全国大図鑑と星のカービィ鏡の大迷宮まわるメイドインワリオの3冊を持っていた(ポケモンエメラルドの攻略本もあったが今のところ部屋から発掘されていない)。それらをひたすら回し読みしていたのだ。
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 今時の子供達はゲームで詰んだ時はググってwikiでも見ているのかもしれない。そのwikiがぼくにとっては攻略本だった。まわるメイドインワリオの攻略本は本当に興味本位だったのだろうけれども、鏡の大迷宮は読むまでかなりぐるぐると回って苦戦していた記憶がある。ポケモン図鑑は本当に当時全ての490種の覚えるわざ、進化ルートの他にも存在する道具やわざ一覧が載っていた。「こんなに楽しいものがあって良いのか」とBW発売後もたまに読んでいた。

確かここの51が最後の宝箱だった
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 攻略本のマップは、まさに宝島への地図と言えるようなわくわく感があった。大抵、クリアしてから見直すことが多いため、思い出のアルバムのような一面もあった。各マップを見ながら開発者に怒ったり、別ルートがあったとまた発見したり………。掃除をしながら出てきたため、なんとなくパラパラとめくると記憶が湧いてきた。いのちのたまはハードマウンテンに落ちていて、まわるメイドインワリオのラストはGBASPを振って踊った。懐かしい。

 

 もう一つの攻略本の楽しみ方として、公式から出た攻略本には本編にあまりない立ち絵がある。公式サイトに行けばあるのかもしれないが、攻略本に載っていることに意味がある。ゲームの進行と共に何かしらの絵を見て情景を想像するのもよいのだ。

 例えば、手元にSFCDQ6の公式攻略本がある。これも読みすぎて袋とじの世界地図がボロくなった。これにはダンジョンマップと共に宝箱の数などが書いてある。他にも町の紹介文や店のデータなどがあるのだが、図が多い分多少の隙間ができる。この間を埋めるのがイラストだ。これもまた面白い。

 

そんなに賑わってなかっただろ
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ミレーユそんな表情するんか
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 ドット絵で表現しきれなかったキャラクターの表情が出ているのがなにより良い。テキストだけだとクールな姉さんだと思っていたミレーユも少し印象が変わる。これらをもとに、馬車内のやりとりを妄想するのもまた一つの楽しみだった。

 

 最近ではネット上にいくらでも攻略サイトがあるため、攻略本も売り上げがあまり伸びないという。たまには、お気に入りのゲームの攻略本を買ってみてはどうだろうか。プレイし終えた少し前のものでもいい。ゲームを遊ばなくともゲームの世界に入り込める、魔法のアイテムとして持っておくのをおすすめしよう。

10つめのすき『テスト前』

 学校に行く最後の用事も失い、虚無の時間をただ過ごすニートのような微妙な存在となった。朝早くから忌々しい目覚まし時計のベルに悩まされることはないが昼間に絶叫しながらスマブラすることがなくなり寂しい。もっとも、夜中に親からうるさいと注意されつつSplatoonをしているため、あまり変わってはいないのかもしれないけれど。

 

 こうも時間がある(実際はない)と少し忙しい時期が恋しくなる。学生の時にやることが死ぬほど多かった時期といえばやはりテスト前だろうか。研究や文化祭前は一時的なものだったため無視する。なにしろテストは毎年4回は来ていたのだ。印象に残るのも仕方ない。

 テスト前というのは文字通りテスト前だ。ぼくは賢く計画性のある人間ではないため、もっぱらテスト開始15時間前が勉強開始だった。1、2年目はやる気があったため、何日か前からはやっていたが、あまりにわからないために諦め気味でもあった。それもあってか3年目から最後まではギリギリに勉強するスタイルであった(一応友人達の勉強会に顔を出したりはしていた)。直前に勉強する理由はない。もちろん、早くやればやるほど定着することはわかっているうえに、毎度の徹夜で懲りているはずなのだ。それでもやめられないのは、小学生の頃から提出期限間際に漢字計算ドリルをやるような性格が治っていないのか、もしくは病気なのだと思う。

 深夜でも放っておけば本当に何もせず試験で死ぬ為、それなりの対策はしていた。ぼくがしたその一つがツイキャス配信だった。勉強をしているところを友人に監視してもらいつつ、あわよくば教えてもらおうというのが狙いだった。結局、ぼくがあまりに内容をわかっていないために呆れる人間が多く、なおかつ深夜帯を通り越し6時まで続くこともあったこのキャスは勉強としては失敗だったかもしれない。

 

 このキャスによくコラボで通話したりコメントしていたメンバーといえば昼にぼくと叫びつつスマブラをしていた、ゎ君とojと女性君(女性ではない)、留年組と「いかにも」な人間だった。他には音ゲしていた友人達(中でも誰もが寝静まる深夜帯、問題に苦戦していると突然出てきて解き方を伝えて消えていくMは信仰の対象であった)、物理の同じ問題に3時間ほどかけてわからんわからんと言い続けていたらアドバイスしてくれたT氏、夜が明けて日も出る頃に「おはようございます」と朝を伝えぼくを絶望させたF氏などが来ていた。

 勉強に集中できたかといえば答えられない程度だったが、頭のレベルが同じくらいの人間とエナジードリンクを補給しつつそれなりの話をしながらだったので1週間毎日、夜中も眠らず勉強できた。流石に昼は寝ていたが。

 深夜帯だからこそよくわからないが使える解法や暗号も生み出された。身内ネタになり申し訳ないが第ニ外国語の問題文丸暗記の回はその代表だろう。n人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものである。

 

 書きながら思い出していると、やはり繰り返したくはないとも思う。これを「すきなもの」に書いてよいのかはわからないが、この記事を書く前、ふいに「あ、やりたい」と思ってしまった。この感覚は食べた直後は「しばらくいらない」、となるが期間が空けば「なんか食いてえな」となる天一に似た何かでもある。つまりそれはすきなのだろう。

 今まで書いた記事の中で、唯一ぼくが二度とできないものだ。だからこそ、10番目の「すきなもの」の区切りに入れておく。

 

 

 

 以降は余談となる。

 ついに「すきなもの」シリーズも2桁となってしまった。アクセス解析を見ていると少しずつ見ている方が増えている。嬉しくなりつつ怯えつつ、これからも続けていきたい。

 3、4日後からしばらく(ずっと)忙しくなるため、週に2回の更新を目安にしたい。もし、あなたが「あんかけが書く」を定期的に読んでくれているならば、突然更新が途絶えても気長に待ってほしい。そのうち戻ってくるだろう。では。