あんかけが書く

かきたいことをかきます。

会社を一年くらいで辞めてゲームしている話

 どうも。あんかけです。少し前にこんな記事を書きました。

ankakeassa.hatenablog.com

 

 前回の終わり際の文章を読んでいる感じ、

「よーし、今までちょっと良くなかったけどこれからはお仕事頑張るぞ!」

みたいな終わり方をしていた。それが3月中旬くらいの話。

 

 で、6月に入ったわけですが。

 会社を辞めることにしました。

 

 「前回からどういうことや」とTwitterやLINEで聞かれまくったので、ここでちゃんと説明します。一応、少し嘘を練りこんでます。

 

 休職から会社に行くようになってからは、会社に行って何か簡単なことをする、という日々が少し続いた。

 お金がないから仕方なくやるしかないかという考えが大きかった。それでも、俺はしばらくこのままでいいとも思っていたし、友人やいろんな人(本当にいろんな人)もそれを勧めていた。なにより、上役は自分のすきなもの、それに対する熱意は認めてくれると話した。続ける理由はいくらでも作れたと思う。

 その反対に、辞める理由もいくらでも出せた。「THE・会社」のあの雰囲気はどこまでも俺を憂鬱にしてくれたし、周りの人の働き方は理解できなかった。休んでいる間にやってみたいことも目に入った(別に辞めなくてもできたとは思うが)。

 

 結局、どうするべきかは決めきれないままだった。自分がどうするかは明日の自分が決めるだろうと先延ばしにし、その結果として続けているだけだった。

 

 ある日、自分の今までの生き方だとか考え方が間違っているんじゃないかと思うような出来事があった。他の人には当たり前で、いまさら何をと言われるような話である。あまりここには書きたくない。

 世の中にはたくさんの人がいて、何をどう考えるか、も億人億色ということはわかっていた。それでも、世の中で正気を保って生きていけるような人達は当たり前の認識があった。「俺はまともで、一般大衆として間違っちゃいない」と思っていた自分にはショックだった。

 その日はこんな記事を書いている。

ankakeassa.hatenablog.com

  ツイートもそこそこキている

 

 世の中と自分と人生を憎んで泣き、今更どうしようもないことに気が付いてまた泣いて、心の底から生きるのをやめたいと思った。

 とは言っても死ぬほどの勇気は無いし、どこで死んでも迷惑になると思うと死ぬ場所も無かった。

 とりあえず生きることにした。

 前回に少し触れた「自分ノート」をめくって生きる理由を探した。幸い、かなり前の死にたい時期に落ち着くために書いたものが少ないながらもいくつかあった。

 まだ天一のこってりラーメンを啜りたい。まだやってないゲームは無数にある。あの人のゲーム実況はまだ続いてる。まだあのゲームで戦いたいアイツがいる。まだ岐阜スマは続けたい。

 

 

  ちょっと生きたくなったところでどうすればいいかを考える。自分が生きにくいのは自分が悪いという根本から見直す。そもそも生きるのに向いてないというのは世の中が悪いと開き直った。俺は悪くねえ、お前らのせいで俺が迷惑してんだぞと逆ギレした。よく考えたら俺がこうなったのは働き始めてからじゃねえか。会社やめたら解決するだろ。退職届はもう前から書いてる。これ叩きつけたら終わりやぞ。

 待て待て落ち着け。やめたからといってなんかできるんか?現状手元に世の中で戦える武器はあるんか?無いだろ。大人しくこのまま生きとけ。

 

 いーや、「大人」になりきれてない俺が大人しく、なんて無理だ。

 

 とはいえ今は深夜。こういう時に何も考えず行動して辛くなった事は数知れずある。朝起きて昼飯を食いながらもう一度考えても悪くない。

ankakeassa.hatenablog.com

 

 次の日に目覚めてしまったが、生きる気持ちの今は何でもできる気がした。

 

 自分もそこまで金が欲しいわけでもない。金を稼ぐ理由も新しいゲームとネット回線のためである。一度、会社の同期に「余計なことに金使ってんな」と言われたが、「それならお前の人生も余計だな」と本気で怒ったくらいには真面目にそう思っている。生活費は計算してバイトであれ問題ないとわかった。

 仕事も別にこれから見つければいい。世の中求人誌にもサイトにも仕事は転がっている。少しでも今より「行きたい」と思うところに行けばいい。心を壊して何もできなくなるよりはマシだ。せっかくならゲームに近寄れる仕事がいい。

 何より、俺は「自分」の人格がそう好きではない。同じような思考をする人間がいるなら全力で拒否するし、接近されたとて互いに分かり合えないと表面を取り繕うような「皮」を見せるだけである。

 その人格よりも「あんかけ」人格がすきだ。友人に見せる笑顔も対戦中の悔しさもいつも心の底から湧き上がる。ゲームを通して出る感情は本物で、これなら知らない人とも仲良くなってきたし(少なくとも自分はそう思っている)、海外兄貴にだってたどたどしい英語でも「ゲームっていいもんだな」とわかりあえた(ゲーミフィケーションは意味が違うがgame+communicationということで)。

 

 気が付けば自己表現の大きな中核を成すものはゲームだった。STGみたいな細々したもの、コンボキャラみたいな繊細さを求めるものはほどほどとして、少ないカードでもここぞという場面で一発決めてやるワンチャンキャラに手を出し続けた。モンハンだってなんだかんだすきな武器はハンマーで、EDFはプラズマランチャー(礼賛もすき)がすき。

 音ゲーも汗をかくほど大きく動くものがすきだ。きっとどこか目立ちたがりなのだろう。岐阜スマだってコスプレする必要は無いのにやっているわけで。

 

 だったらゲームで生きるのにワンチャン賭けてもいいだろ。

 

 今まで俺のしてきたゲームに対しての気持ちは本物だと思っている。短い人生でやめてきたこと、飽きたことはいくらでもある。ジョギング、筋トレ、毎日の勉強、DTM、整った生活リズム、日記……。思い出せないものもいくらか。ゲームといくらかのものだけはすきでい続けている。

 そして今の時代、ちょっっっっっっっっっっっっっっとづつゲームをなんとか面白い世界だと広めようとする人がいる。その陰で頑張るいろんな人がいる。これもそのうち日本が第三次産業として認めるかもしれない。そこで俺が頑張る人としてこの世界に恩返しができるなら、なによりだ。

 

 

 

 そして。

 辞めることにした。

 

 

 

 部署の上の方と面談をしたのだが、役職がかなり上の方まで話に来た。俺としては考えたことをそのまま言っただけである。上記の話した方はもちろん、初めて「あんかけ」のしている事を話した方々にも頭の中の物事を説明した。念のためにと録音していたが、それを聞かずとも、あの時に返ってきた言葉は何となく覚えている。

「何人も早いうちに出ていった社員を見ている。君のようにやりたいことがある、と言った人間の割合も多かった。けれども、君ほどそれに対しての思いが強いと思った人間は、いなかったかもしれないね。」

自分で書いていて、都合のいい話が一番に出るとは恥ずかしいばかりである。

そして、これも。

「俺は好きな事を仕事にしたくないんだよね。俺も好きな事はあるけれど、仕事なんだからその業界の嫌な話、見たくない面も見えるわけだし。君はそれを受け入れる覚悟はあるかい?」

 答えはYesだ。

 Twitterには毎日のように炎上案件が目に入る。いろんなイベントに行ってみれば、参加者側でも運営側でも良い点もあるが悪い点はさらに目立ちがち。開催する側でも、今のこの業界の問題点も苦労も、聞くし読むし知ってしまう('オンライン'で'既存のサービス'を使って'超小規模の'大会を開くのもごたつくわけで)。

 でも、それを含めてやってやる。俺がなんとかできる範囲はあるけれど、なんでもなんとでも手を尽くしてやりたい。それくらいの気持ちは持っている。

 

 

 

 今は手を付けた範疇の仕事の引継ぎをし、有給消化を兼ねて休みつつ、必要な手続き、転職活動、バイト探し、このブログを書き、本を読み(前回参照)、ゲームも欠かさずしている。正直、仕事をしていた頃の方が時間があった気がする。満足度は今の方が段違いに高いが。

 

 中学生の頃は「大人になったら何になるんだろう」と思っていた。今の民法では成人に分類される年齢の俺はなんと「何者にもなっていない」。それどころか「大人」ですらない。笑えない話である。

 まあ、でも、今は、やれることをやりながら、やりたいことをやる毎日を楽しむのが正解だろう。のんびりとはしていられないが、もう少しだけ、この時間に身を任せていよう。

 

 次に書くことは、できれば幸せな内容であるのを祈って。

 


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 ここまで書いて、「迷いと決断」をテーマにしたブログのコンテストが目に入った。ちょうどいい。やれることはやってやる。迷わず応募するさ。