どうも、あんかけです。
このブログの更新頻度が下がっているものの、まだ続ける気は存分にあるので気が向いたときに見てもらえれば嬉しいです。
今回はこのブログを始めたちょうど一年前くらいから今までの自分語りをしようと思います。自分語りは嫌いではないので「すきなものをかきます」に反してないからセーフ。
内容を大まかにまとめれば結末はタイトル通りになるのだけれど、何してたか自分でもよくわかってないので、記憶の整理も兼ねてここに書き残す。多分同期とかに見られたら2秒で特定される。平穏に生きていこうと思います。
去年3月末
- ブログをちまちま書いている頃
- この時期に地元から脱出し、関東へ引っ越す
- 同期が辛い
とにかく地元は田舎で、将来性が無いなと思っていたこともあり、都市部で働こうという考えを持っていた。他にも給料とか白そうだとか少し興味のあった分野など、理由は絡まってよくわからなくなってしまったが、ともかく縁があって今の会社で働くことになった。
この頃は友人とSplatoon2漬けで、将来よりもボールドマーカーの面白い使い方とかを考えていた。これから働いて潰れるような長い人生よりも一戦毎に何かおもしろ事件のあるスプラの方が有意義だった。
いよいよ目の前の事を片付けようと考えたのは引っ越しの3日前ほど。準備を済ませ、自分の持ち物の少なさに驚いたものの、そんなことはどうでもいいと出る前までスプラに打ち込む日々であった。
家から出た日はこんな感じ。
内定式からわかっていたことだったが、同期には俺みたいなゲーム野郎がほとんどいない。ガラパゴス諸島のような特殊な環境で生きてきた俺には、一般人とどう会話をすれば良いのか一つもわからない。つまり、同期の友人もいないままに社員寮で生きることになってしまった。
和気藹々とよくわからない話をする同期を尻目に、ゲームのためのインターネット環境をどうするか悩んでいた。本当にどうしようもないやつだった。
4月
- 研修&研修
- やっぱり同期と仲良くなれない
- 繋がりは少しできた
- 金がすごい
会社は入ってしばらく研修が続いた。学校でやったようなクソほども面白くない研修内容であったが、そのうち使うのだろうとそれなりに勉強し直した。
研修は精神面を鍛えるようなものもあり、理不尽な話に半ギレで講師に突っかかったこともあった。
このあたりの研修の話はここの後半でも書いてある。
読んで「気持ちわかる〜〜〜」となったが自分の話だから当然であった。逆に言えばここの考え方は変わっていないのだろう。つくづく会社勤めに向いていない。
研修は同期とグループで行ったのだが、あまり(全く)口を開かないような俺でもよくしてくれるようなイイ奴と同じになれたおかげでグループ内ならまだ喋る事ができた。気を遣ってくれたのは少し嬉しい。
それでも、飲み会とかガンガンやるような「陽」のノリにはついていく気になれなくて、寄り道はゲーセン、寮に戻ればゲームの「陰」の者として生活していた。
なんなら数人グループに「飲みに行かない?」と誘われたものの「今日は大事な用事がある」と断り、ゲーセンで脱衣麻雀筐体に100円を注ぐ日もあった。これは未だに忘れられないカスエピソードである。
そんな俺でも、唯一話せた「俺と同じ香りのする人達」とは仲良くできたと思う。たまに会社の用事で会うと昼飯とか行く。助けといえば助けであった。
ついでだが、社会人一年目でなおかつ社員寮にいると金がすごい。何も利益を産み出さないままの新人に支払われた4月終わりの給料は俺をニンマリとさせてくれた。
思えば、この時から体調が悪かったかもしれない。
5月〜6月
- 研修にうんざり
- 相変わらず人間関係はうんこ
- ウメブラ等ゲームのイベントで目覚める
この時期の自分語りがこれ。GWに帰省するついでに愚痴をぶちまけている。可哀想な奴だ。
やはり研修は続く。うまくいかないコミュニケーション、クソほども興味のない内容。そこそこ荒れていた。
この頃は一人で飲み屋に行くのが楽しく、美味い焼き鳥屋や安い居酒屋で豪遊していた。ゲーム以外の楽しみであった。もちろん、酒の後はゲーセンだの友人とオンラインでゲームだのをしてゲームは絶やさなかった。
ゲームし続けていると、ふとあるものが目に入った。ウメブラ開催のお知らせである。
クソ田舎だった頃は配信をワクワクしながら見ていたあの大会に行けるとなり、テンションが上がった。その時のオフレポがこれ。
こんなに楽しいことがあったのか、と人生が変わった。それ以来、クロブラや秋葉原の対戦会等、行けるスマブラ大会はそこそこ行くようになっていた。
ゲームで話せる人に飢えていたこの頃は非常に楽しくゲームをしていた(今も楽しんでいる)。やはりすきなものを捨てることは無理なのである。
それと同時に「ゲームイベントで食っていけないか」「やたらオフレポが読まれたしもしかしたらライターもいけるのか?」とナメた考えを持つようになる。よくよく考えたらただの思い上がりである。
しかし、未だに「人生が悪くはならなかった自分なら」とゆるく考えるのは変わっていない。なんなんだこいつは。
7〜8月
- 仕事に悩み始める
- 「ゲーム」もいろいろあると再実感
- 親に呆れられる
この頃の自分語りがこれ。
この時は「ライター募集フォームを見つけ、勢いで応募しようか悩んだが、募集期間が数年前だった」という話である。しょーもないと言えばしょーもない。
研修もほぼ終わり、配属ガチャは☆2くらい(最初の印象)。さっさとやめてやりたいことやったほうが人生は絶対にいいものになると思い、馬鹿ながらも真剣に悩む。
その過程で、まずは「ゲーム」を知ろうとEVOの配信に張り付いて土日はずっと見ていたり、ゲーム史の勉強を始めるなどした。今でもゲーム史の本は見つければ読む。レトロゲームがすきな俺としてもこれは面白く、アーケードゲームからコンシューマーゲームまで知識としては頭に入れた。経験としてのプレイは足りていなかったが、アーケードゲームは今でもひっそりと隠れたゲーセンにいろいろ置いてある。これを探して足しげく通った。単純にゲームをしているだけではあるのだが。
その対比で、やはり仕事が面白くない。「意味のわからん事やってんな〜」とどこか客観的にものを見る節がある。そのうち自分がやるというのに、他人事のように眺めていた。働く前と考え方は変わっていないのである。
徐々に仕事を覚える度に、「自分のやれることが増えてしまう」と悲観していた。ついでに、同じ配属の同期は俺と反対に位置する人間である(仕事すき、めっちゃ喋る、飲み会が趣味?)こともあり、ちょっとしんどかった。
この同期は仕事する上では、なんだかんだ悪くないと思っている。正反対故に凹凸が噛み合っているのだろうか。
このようなことで悩んでいる話を親にしたところ、「バカなこと言ってないで今はまだ働いとけ」と一蹴された。息子の狂言だと受け流されていたのだろう。
9〜10月
- 呼吸が苦しい
- 転職サイトを回る
- 通院が始まる
- なんか辛い
- 引っ越し
これくらいの時期から呼吸が苦しい症状が差し支えのあるほどに悪化。肺の入り口にビー玉で栓をされた様な苦しさであった。会社に行く度にそれである。無理に頑張ろうとしていたのがやはり良くなかった。
ある日、呼吸が止まり、全身が硬直したような感覚に襲われた。座っていたからまだ良かったのかもしれないが、本気で崩れかけた。その日は特に用事もなかったので、早退し、病院に行く。先生に話をすると精神的ストレスから来ているのかもしれないとの診断。薬を処方され、通院生活が始まった。
上司にはこんな話はしにくい(来た新入社員にいきなりストレスでうんぬん言われると面倒になりそうと思った)ので、とりあえず「胃が悪いみたいです」と話した。
もうしばらくして、こんな事件もあった。
我ながらかわいそう。確か先輩に「なんか涙が止まらないので明日休ませて下さい、上司には体調不良とか言っておいてもらえるとありがたいです」と伝えた。先輩がめちゃくちゃ心配してくれたのは覚えている。あと同期も。
次の日は運動とゲーム成分を摂取すべくDDRとスマブラに全力を注いだ。なんとか会社には行けた。
いよいよまずいか、と思ったのでとりあえず転職サイトや求人雑誌を見ながらできそうな仕事を探した。
また、通勤に100分くらいかかっていたことと、周りで引っ越しブームが来ていたこともあり、社員寮を脱出し、今に至る。通勤時間は驚くほど短くなったが、家事に時間を取られるせいでなんとも言えない結果である。あと、東京らしく風呂が狭い。
こんな記事もあった。
この頃には「岐阜スマを面白く」と思っていたのだと思う。実際はわからない。
11月
- 限界
- 会社で泣く
- うつ病の診断
- 虚無
11月から本格的にキた。週3くらいで泣きながら友人に電話をかけ、もうダメかもしれないと思った頃に会社から「お前精神鑑定テストの結果やばいから産業医と話して来い」と言われる。
会社の産業医からちょっとしたカウンセリングを受けると、近所の精神科に紹介状を出された。
精神科の先生はいい人だった。話した結果、「こいつうつ病なんで仕事はほどほどにしてあげてください(意訳)」という内容の手紙を会社に出され、さらに社内面談へ。
この時にはもうなにもできない気がして、泣きながら休職を懇願した。
結果、俺のわがままが通ってしまい、長い長い休みへ入っていくのだった。
それからの数日は虚無である。とりあえず心を落ち着けるには本だろうと、本棚の本やAmazonで何冊か買い足した。思い返すと、こんなことを書いていた。
44.5つめのすきなもの『最近読んだ本』 - あんかけが書く
食事は腹が減ればカップ麺、風呂も微妙な頻度。なんなんだろうか。ほとんどなにもしていないのかあまり記憶がない。
余談だが、休職前に痴漢に遭う。
この一週間後、同じくらいの時間に電車へ乗ったらまた痴漢された。多分同じ奴。死にてえ。
12月〜今年1月
- スマブラSP発売
- 長めの帰省
- 親戚一同から「なんか大変そうやな」とさり気なく触れられる
そんなこんなで無為に過ごすうちに、ついに12/7がやってくる。そう、スマブラSPの発売日である。この前日にはこんな記事を書いていた。
文章は楽しそうにしている。良いことである。実際、スマブラだけを楽しみに生きていた面があるため、桜井政博は命を救ったのである。
さて、休みとは言っても家にいれば食費や電気代はかかるのである。なんだかんだで数万。これは少しばかり厳しい。現状の説明と節約を兼ねて実家に帰る。
親からは質問責めであった。「働けるの」「会社はどうするの」。
この先の話なんか知ったことではない。一瞬を考えるいきあたりばったりな生き方をしてきた自分には人生など考えていないに等しいのだ。それはこの文を書く今もあまり変わらない。明日苦しむための準備より目の前の楽しいことをする方が有意義である。明日の苦しみは数時間後の自分がなんとかしてくれるのだから。
質問に対して、具体的な答えは何一つ提示しなかった。なんともならないものはなんともならないのだ。それはわからないとしか言いようがない。真面目に考える気は起きなかった。
この時期は年末年始、何かと親戚が集まるシーズンである。親戚からも同じような事を聞かれたが、「わからん」「働きたくない」で通した。親には悪いが、「あんかけ一家のやばい息子」の認識になっていると思う。すまんな。
2月〜今
- 仕事やめるか真剣に悩む
- 上司とサシで話す
- 少しだけやることを考えてみる
やめるか悩む度に「自分ノート」をつける。仕事を辞めたい話をTwitterに書くよりは具体的にどう辞めるかをノートにまとめておく方が有意義だと思ったからだ。
ノートを書いているとやっぱりゲームがすきだという結論に至り、それで食っていけるか考えてみた。いろいろ自分なりに調べ物もした。考えもしなかった将来のことも考えた。
それでもそれは今まで脳味噌で回っていた考えの再確認でしかない。ここから何かを変えるには人の意見が必要だと思った。
ノートを友人に見せつつ話を聞く。別の考え方の視点や具体的な将来像まで出せるような話をした。親は「息子がゲーム好きすぎる」と諦めたのか「好きにしろ」とのことだった。
大人からの意見は少なかったので、上司から話を聞くことにした。素面で言えば「ゲームのやりすぎで頭がおかしい人」と思われそうだったので、酒を飲みつつ話した。結果、「君の仕事を少し変える。自分のペースでやれるものにしよう。それからできることをやってみてもいいんじゃないか?」との返答だった。割と理解がある人でよかった。将来は見えないが、仕事の内容もそこそこ楽しそうなものになるとわかり、気が楽になった。
で、今できることは何だろうか。
ノートには「ゲームで食っていくのに自分の才能は足りなさすぎる」とある。経験として使えそうなものは「岐阜スマ運営組」であることくらいだ。ここから考えるなら、
- 次の岐阜スマを良いものにする
- 他の大会スタッフをさせてもらう
- もっと他のゲームを知って交流範囲を広くする
- ゲーム以外のイベントも目を向ける
が妥当だと思った。一応、最後の項目以外は実行しているつもりである(最後の項目は最近アドバイスをもらったため)。
岐阜スマの話はまた後で書く。
こんなところだろうか。思えば一年、早かった。この話を読んで、「ナメた野郎だ」と想われても仕方ないと思う。実際世の中舐め吉なのはわかっている。それでも、自分なりに生きようと思ったので、許してほしい。許せない所は教えてほしい。許せるように改善してみせる。
平成は終わり、次の年号に移る。これからの話は、まだなにもわからない。来年も同じような記事を書いて、自分が少し成長しているな、と思えるようになりたい。
またよろしくお願いします。